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天下の意味は時代によって違う
織田信長が尾張、美濃の2カ国を領する頃から「天下布武」なる印象を使用したことが知られている。教科書的な有名な事項です。そこでは信長が天下統一の野望を示しているものとされてきた。つまり、そこでは「天下」とは日本全国六十余州と解されているわけです。
しかし、最近の近世史研究では、それは意味が違っているとされるに至っています。藤井穣治『戦国乱世から太平の世へ』によると、信長の頃の「天下」と言っている範囲は日本全土ではなく京都を中心とする広く見ても機内あたりということらしい
藤井氏によれば、1583年(天正11年)の「イエズス会日本年報」の記事の中に「天下、すなわち都に隣接する諸国」なる記事があるとのこと。外国人は外国人であるが故に、論理的に精確に言葉を観察、評価しますからこの説明は重要なわけです。
また、山崎の合戦のあと光秀の家臣である斉藤利三が捕虜になり、京都市中で車で引き回された後処刑されたことが諸資料にて史実として確定しています。その直後の秀吉の書状に「蔵助(斉藤利三)ハ生捕ニ仕、~天下において、車ニ乗せわたして、首を切り、かけ申候」とある。つまり、ここでは秀吉は天下を京都の意味で使用しています。藤井氏によれば、他の諸史料からも、天下が京都あるいは京都周辺の意味にしか取りえないものがあるらしい。
ところが時代が少し下がり、1603年のイエズス会宣教師によって編纂された『日葡(日本-ポルトガル)辞典』には「天下-天が下、君主の件または国家」となっているとのこと。これは天下イコール全国ですね。
元和9年(1623年)。家光が三代将軍になった直後、三河吉田藩主松平忠利がその日記に「天下、将軍様に御渡し」と秀忠から家光に代替わりしたことを表現しているとある。「天下の副将軍水戸光圀」という表現は芝居や映画の中だけですが、天下の意味が変わった後であることは明らかですね。
「天下」が日本全土を意味する語として遣われ始めたのが秀吉の時代の後半から、江戸初期には定着した。それ以前は主に京都とその周辺を表す言葉だったと。
ちなみに「天下布武」はブレーンのひとり臨済宗の沢彦(たくげん)和尚の示唆によるという説がある。したがってここの「武」は単純な武力=軍事力という意味ではなく、中国古典のある七徳の武であるなどなど議論があるようです。それはそれとして、古い言葉は史料を精確に読解しないととても難しいですね。
【塾長コラム】